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道州制勉強会(2007/08/23)にての発表内容紹介

2007年09月28日

道州制勉強会レポート070823発表(加筆)
発表者:NPO法人琉・動・体 代表理事 上江田常実
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イメージ映像の紹介
 一昨年、家族旅行でたまたま訪れた奄美大島加計呂麻島、西安室「夏祭り/相撲」の映像。ポイント。
1外部者を受け入れていた(いきなり弁当をいただいた)。
2婦人会のマツケンサンバ。ノリノリのおじー。伝統芸能という堅苦しさが無く、お年寄りが生き生きと歌い踊る姿を初めてみた。
3相撲大会。兄弟対決。親子対決。力士や会場の気持ちを汲みとる行司の仕切り、場内アナウンス。

 父と子、兄と弟が相撲を取る。倒す、倒される。悔しがる。手を差しのべる。相撲の合間に子ども、婦人会、おじさんたちも楽しそうに演奏し踊っている。会場にリラックスした雰囲気があり、心地よさを感じた。
 言葉や理屈ではなく、データ化できない、インターネットでは伝達できないもの。

創造都市part2
~つぎの100年は、管理保護下からクリエイティビティへ~

 1871(明治4)年廃藩置県当時、明治政府は植民地政策を進める欧米に脅威を感じ、近代日本国をつくりたかった。
 「帝国憲法」と「教育勅語」を二本柱に、大衆の「国民化」を行なう。国民教育、学校制度が重要となる。
 以後、優秀な人材(官僚)は中央に集め、国家の方針を決定してきたと思う。それから一世紀がすぎ、時代が近代から現代へと移行した。

1)近代から現代。トップダウン型からワークショップ型社会へ
トップダウン型 
優秀な脳みそ(中央政府)で判断し、神経・筋肉をとおして(地方)へ指示をだす
 近代社会では、やるべきこと(軍事化・経済成長)が明快。効率的なシステムが適し、地方が中央の指示に疑問を持つことは非効率的だった。

ワークショップ型 
人は脳だけで判断していない気がする。皮膚や臓器、遺伝子、電子、あるいは天気や自然、霊性など多様な現象に生かされている。
 現代社会では、現場で感じること、解答のない課題に向き合い、試行錯誤し続ける。

ワークショップとは?
『市民の日本語』加藤哲夫著(ひつじ市民新書 発行2005/1)
「一人の人間が多数に向かってしゃべり続けるのではなく、その場にいる人たちが、皆で議論や決定に参加できるように工夫した学習の方法。声の大きなものが議論を支配し、大部分の人は沈黙し、最後は多数決によって何かが決まるのではなく、さまざまな形で参加した人が議論に関わることができる仕組みをもった場づくりの方法。」
「正しい結論を誰かが持っているわけではないということに、気がつきだしたのです。」
「地域に何か問題があったとして、それを行政にお願いする形で解決するという時代は終わったのです。」p4、6、7より


機関委任事務は廃止された?
 2000年4月地方自治法の改正。
「国と地方公共団体との関係は『上下・主従』から『対等・協力』になったのである。」
沖縄の道州制問題に関する調査研究報告書(平成19年3月、(財)南西地域産業活性化センター)p8より

日常生活での積極的な納税
・優秀な人材を中央に集中させて生活させるのではなく、家族単位で地域に根を張り生活する。
・税制上、大都市圏に集中している税収入を「分配する」「いただく」という意識を変える。税金あくまでも公金。
・近所の公園、歩道、街路樹など、税の使い道が体感できれば、納税への気持ちは変わるのではないか。

議会重視と公開制
・中央に流れていた優秀な人材が、地域自治に関わると、新しい回路が生まれる。
・無責任化している官僚主導を政治主導へ変える。公選された人材がパブリックな場で税金の有効利用について政治判断する。
・議会、委員会の議事録はすべてHPで公開する。
・民放ゴールデンタイムの時間帯に、議会や委員会がTV放映され、視聴率がとれる時代がくる。

効果的な行政事業の評価と公開
・縦割りの予算配分、行政事業の「やりっ放し」を見直す。
・中長期的な視野で事業評価、ノウハウを積み重ねる行政システムをつくり、公開する。

主体者としての市民
・安易な行政批判ではない議会アプローチ。
・行政、議員に丸投げしない。

2)デタッチメント(関わりのなさ)からコミットメント(かかわりあい。関与。)へ
・団塊の世代以後に政治の放置。パンとサーカス。
・大人は車で自宅と職場を移動し、自分の領域にひきこもっている。街に子どもやお年寄りの居場所がない。
・「趣味・教養型社会」から「現実の街へのコミットメント」にかわった方が良い。

3)魂のおき場所(近代から現代へ。脳から肌へ。)
・仕事を忙しくすることは一番簡単。耳をふさげばいい。行き詰まりがち。
・自分の心身が発する声、家族、周囲に耳を澄ますにはゆとりが必要。経済的なゆとりは重要。一方、精神的なゆとりは単純なことではない。
・日常生活を仕事一色に染めずに、精神的、文化的なものとの回路が大事。

4)専門言語と生活言語をつなぐ、第三の言語
・地域自治には、専門教育を受けた言語と、日常生活に浸かった言語を繋ぐ「第三の言語(翻訳)」が必要。
・行政職員は自分も市民だという当事者意識が必要。

5)お互いのクリエイティビティを刺激し、芽生えさせる議会
・批判する(攻める)、反論する(構える)ではなく、議会や委員会でクリエイティブ(創造的)な議論をするための具体的な工夫。
・事案によっては現場(公園や施設)の光や風を感じながら議論してはどうか。
・地域の公立文化施設(博物館、美術館、公民館)は、古い社会教育の概念から抜け出し、地域のクリエイティビティを発する拠点になる可能性があると思う。
・建築空間が人に与える影響は大きい。沖縄県議会棟は傍聴席から議員が見えず、建築も硬い。
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某氏の大学講義(2005/5) 配布資料参考(下線は発表者)

1.近代の性格と「大きな物語」
 近代とは、皆が進歩と理性を信じていた時代であるという。またそれに従って資本主義は発達してきた。皆が同じ目標に向かってまっしぐらに突き進めば正しい答えが得られ、社会がよくなるという信念があった、それをリオタールは「大きな物語」と呼んだ。
 その思想を背景に、近代国家では成員をまとめあげるためのさまざまなシステムが整備され、その働きを前提として社会が運営されてきた。思想的には人間の理性や理念として。政治的には国民国家や革命のイデオロギーとして。経済的には生産の優位として現れてきた。「大きな物語」とはそれらの総称である。

2.ポストモダンと「小さな物語」
 それに対して、近代を批判的に捕らえるようになったのがポストモダン。近代が音をたてて生産した結果、様々な弊害が起こってきた。例えば公害問題や都市の殺伐とした人間関係など。近代をもう一度捉え直すことが始まったのがポストモダンである。
 ポストモダンの時代である現代は、そうした「大きな物語」が壊滅した時代だという。唯一の真理などなく、社会の数だけ真理や正義があることが明らかになった時代である。
 大きな物語が衰弱し、社会全体のまとまりが急速に弱体化する。日本では高度経済成長と政治の季節が終わり、石油ショックと連合赤軍事件を経た70年代に加速した。個々人がばらばらに自分の価値観にそって生きる目標=「小さな物語」を定めるのがポストモダンの時代である。

動物化するポストモダン 東浩紀著 講談社現代新書2001
不可視なものの世界 東浩紀 朝日新聞社2000
戦後の思想空間 大澤真幸 ちくま新書2004
虚構の時代の果て 大澤真幸 ちくま新書1996
物語消費論 大塚英志 角川文庫2001
まぼろしの郊外 宮代真司2000
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Posted by ryudotai at 18:33│Comments(0)文化・美術
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